振り返ると快晴
楽しい昔話に花を咲かすと脳の中にエンドルフィンと言う物質を作りだし、若返るそうだ。
お昼の番組でやっていた。私に免罪符を与えたようなものだ。
これを口実に思い出話に花を咲かせてみよう。

部屋っ子物語−其の壱−
【暁 鐘】 【起 床】 【朝 礼】 【朝 飯】 【通 学】 【授 業】 【心ちゃん】
暁 鐘
 高校時代を過ごしたのは千葉県柏市の、とある全寮制の学校で、一学年はおおよそ男子90人女子60人位だった。
男子寮と女子寮はかなり離れた位置に建っていた。
男子寮は3階建ての3つの建物に2寮から9寮までの8つの寮があり、1寮のあるべき位置には寮務助手と呼ばれる人達がいた。
彼らは我々の先輩でもあり、寮の連絡等の雑用や寮担任の先生方のサポートをしていた。
寮務助手の寝起きしている部屋の隣には保健室があり、ここを常宿にする者も生徒の中にはいた・・・・・。
 中学時代、公立の学校で平々凡々と過ごしていた自分にはこの高校時代はかなり刺激的であった。
その日常が摩訶不思議だったからだ。寮での行動単位は部屋である。
3年生は部屋長と呼ばれ、部屋では神様であり、2年生は普通の人で部屋中という身分ではある。
しかし、大抵は名前で呼ばれている。
そして、1年生は部屋っ子である。
神様がいて、普通の人がいれば自ずとどういう立場か解ろうというものだ。
ペットにも名前が付くというのに部屋っ子以外では呼ばれない。しかも神様の命令にはプロンプトだ。
部屋の運営の責任者は部屋長で、その人の人柄で、部屋っ子の運命が決まる。
 毎年、数人の部屋っ子達は初めての夏休みが終わっても、自主的に夏休みを延長してしまった。
起 床
 寮での朝は早い。6:30に鐘が鳴る。当番が早起きして鐘を打つのである。
朝、鐘の音を聞くと同時に部屋の外へ飛び出し、『きしょう〜』と叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ。
中学時代、深夜放送のジャンキーなリスナーであった私はこの朝の日課がごく苦手だった。
『ちきしょう〜』と叫んでいたのは私だけだったのだろうか?
 自分の布団を決められた畳み方で畳み、歯を磨き顔を洗うとまず第一にすることは朝の掃除だ。
四角い部屋を丸く掃除し終わると当番の場所へと向かう。
当然部屋っ子だけがこの仕事をやっていたように思う。
掃除を一緒に手伝ってくれる3年生もいるには、いた。いたはずだ。
しかし大半の3年生は部屋っ子にやがて起こされ、ジャージに着替え、雨が降ってなければ表へと出ていく。
そして古びた寮旗を掲げた部屋っ子を先頭にグラウンドまで駆け足だ。
『ウ〜ッ ワッショイ!』 『ワッショウイ!』
朝 礼
 朝のランニングの距離は1.5kmくらいだったと思う。
学園の名物桜並木の下を大声を挙げながら駆けていく。
私はこの時間が好きだった。誰にも遠慮せず大声を出せたからだろうか?
グラウンドに着くと、ここでも当番の部屋が朝礼の準備して待っていた。様々な当番があった。
部屋に当番の種類を書いた板が回ってくる。
大半の当番だと部屋っ子だけ仕事が増えた。だが、朝礼の当番だけは3年生が嫌がった。
台の上でラジオ体操の指導をしなければならないから・・・・
朝 飯
 朝礼が終わるとまた、旗を掲げて食堂まで大声を上げながら駆けていく。
我々高校生も食事は大食堂で摂った。おいしいご飯で、名輪主任や他のスタッフの方の苦労の賜物だった。
高校生は食べ盛り、飯のお代わりが自由なのは大助かりだ。しかし、おかずが足らなくなる。
それでアルミパットに佃煮やら漬け物やらが盛られていた。それを湯飲みに入れてきておかずにするのだ。
食事はセルフサービスなので行列に並んでお盆の上に取っていく。
 私は関西系なので納豆を高校入学まで見たこともなかった。そのため後に一つの出来事があった。
まア、そのことについては別に書くとしよう。
朝飯は部屋単位で摂った。部屋っ子がお櫃とヤカンを取りに行って全員のお茶碗によそうと全員で合掌し、部屋長が『いただきます』の音頭をとる。
通 学
 朝礼から寮に一度戻り、着替え終わると学校に向かう。
距離はと言うと1kmもなかったと思う。
会員会館横の竹藪を抜けるコースと住宅の周りを通っていくコースがあった。
竹藪のコースは距離は短いのだが、かなりきつい坂だった。元々は道ではなかったのだろう。
 今になってみると恥ずかしくさえあるが、下駄履きが許されていた。
しかも高下駄さえ履く事ができた。不思議な光景だ。しかし、こうして伝統は守られていく。
ただ部屋っ子となると先輩のお古の歯がちびて薄い板だけになってしまった下駄もどきだ。
かく言う私も3年生になるとき高下駄を買ってしまった。
Black Jaensにボタンダウン、とどめが長髪だった。
思い出すと赤面してしまいそうだ。
高下駄で慌てて走るのは御法度だ、まず捻挫する。坂道も危険だ。
授 業
 高校時代の私は授業中よく寝た。
生活環境が変わり、朝早くから緊張の連続であったから授業中は先生の声が子守唄だった。
学校にくると部活が終わるまでは部屋の人たちとは一緒に行動しないで良いので気楽に羽が伸ばせる。
私のクラスは1年A組、担任が心ちゃんのクラスだった。
ご免!心ちゃん、私は貴方が苦手でした。
心ちゃん
 クラス担当の心ちゃんは数学も担当していた。
A,B組を成績で2つに分け、上のクラスを心ちゃんが、下のクラスを六寮担当の梶原先生が担当していた。
自慢じゃないが中学時代、数学は得意な方だった。たぶん入試もかなり上の方で通ったという自信がある。
そのため一年生の最初の頃は、心ちゃんから数学を教わっていた。
繰り返して云うが、私は心ちゃんが苦手だった。
居眠りしていた私を起こして心ちゃんが云った『市原君、以心伝心貴方のご両親が泣いてますよ。』
なんで居眠りしたぐらいで親まで泣かなきゃならないの?
その一言で彼の授業中は眠くなくても就寝時間にすることに決めた。
お陰で二学期からは梶っ原先生のクラスだった。しかし同時にそれ以降数学がわかんなくなってしまった。

振り返れば快晴 INDEX ◆ 【続く】


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