五寮の寮長は有元、副寮長は和田という取り合わせだ。 有元はサッカー部でキーパーとして県大会でも活躍していたらしい。 和田は空手部だったが、見た目は優男だ。少し、軽いところがあった。 先生方が寮長達を決定したと思うのだが、適任者が選ばれたと思う。 いや、もしかするとなってからの時間が彼らを適任者に育てたのかも知れない。 寮長達は我々とは別に寮役員としてのガイダンスを受けていたように思う。
この佐藤、確か三重県の出身だった。記憶に残っているのは、彼は『君が代』を知らなかった事だ。 私は正直驚いた。君が代は小、中と当たり前のように歌ってきたから、君が代を知らない奴が居るのが不思議であった。 彼は習ったことがないと言っていたが、他の歌も"超"が付くほど音痴だったから、歌うこと自体が嫌いだったのかもしれない。 数ある寮歌を覚えるのにもかなり苦労していた。 そして私はというと、夜更かしが過ぎて、朝、部屋っ子に起こされることがしばしばだった。 受験と真剣に取り組まなければいけない時期にたいして勉強もしていなかったのだが、夜遅くまでごそごそと活動していた。
特に歌番組などは興味の対象外で、ラジオから聞こえてくる曲で流行の最後尾を垣間見ている程度だった。 当然JAZZ等、耳にする機会もなかった。 そんな私が、小林から『Aspect In JAZZ』を教わった。今はもう無くなってしまったが、JAZZ奏者を一人ずつ紹介していく構成だったように記憶している。 丁度、背伸びした高校生がはまり易い素材だ。FM東京の『Jet Stream』と『Aspect In JAZZ』は欠かさず聞いていたように思う。 その頃には別館前にある自動販売機で、深夜『Short Hope』を買って来るようになっていた。 深夜、JAZZを聞きながら、"ショッポ"をふかした。喫煙は当然、見つかれば即停学の憂き目を見る。 寮担任の先生は夕礼の時に来られるだけで、見回り等は無かった。しかし、ヒヤヒヤものだったので、カモフラージュのために季節はずれの蚊取り線香に火をつけた。 単なる気休めである。
そう何回も行ってはいないが、小林と出かけた覚えがある。 『マッコイ・タイナー』『バド・パウエル』『ソニー・ロリンズ』『ジョン・コルトレーン』等という名前も覚えた。 夜の時間の流れにJAZZのメロディはどこかCoolな印象だった。 『マッコイ・タイナー』のコンサートが芝の郵便貯金ホールであった時、初めてコンサートにまで出かけた。 大学時代、JAZZ好きの喫茶店のマスターと仲良くなれたのもこの経験があったからだ。 我々が暮らす2号館はゴルフ場のすぐ隣にあった。
夜更けに活動をしていると、朝はろくすっぽ起きられない。夕礼が終わると、すぐに就寝時間だ。 部屋っ子に、時間が来たら起こすように言いつけると布団に潜り込む毎日だった。 深夜に活動するための準備である。 打鐘当番が部屋に廻ってきた時も、部屋っ子に起こすように言いつけ、いつものように
三年生全体の雰囲気はそれほど切羽詰まったものにはならなかった。 個々の同級生を見れば将来に備え、休みになると予備校似通う者もいたが、共同生活の中では放課後を個人の時間にだけ使うことはできなかった。 受験生であると同時に寮という組織を運営する構成員でもあった。 今でも、泥縄的な性格はそのままだが、高校時代、将来の設計などそう真剣に考えてはいなかった。 休みに入ると寮で生活している者は故郷へと帰省していく。 しかし、早い者は二年に進学すると同時に駿台予備校や河合塾での講座を受けていたように思う。 それでも、三年の夏休みには学校側が補習授業を開いてくれた。 希望する者だけが寮に残った。私の宿舎は二号館だった。結局、他の建物には縁の無いままだった。 |
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