財団が運営する全国の研修施設の中に福島センターというところがある。そこで研修が行われた。 次期三年生は現地集合という連絡があり、そこでの再会を約束して各自帰省した。 私は小林としめし合わせて、福島へ向かう途中で名所松島へ立ち寄る事にした。 上野駅のKioskで、Torysのポケット瓶を買って夜行に乗り込んだ。寝台等ではなく 、座席指定でもない。 電車の車内は座席がほかほかと暖かい。私はウィスキーなんて飲み慣れていた訳ではなく、 これも好奇心だ。 小さな蓋をグラス代わりにチビチビと飲んだ。それでも結構ほろよく酔えた。 取り留めもない話をしているうちに朝がきて、松島の駅に電車は滑り込んでいった。 私の記憶に残る松島は残念ながら、もう一度訪ねたいとは思わないところだった。 違う季節や別の視点で眺めたら、もっと違う感想を抱いたかもしれない。 だが、そこは土産物屋が野放図に鉄筋コンクリートに立て替えられ、建ち並びんでいた。 近くの港には極彩色の船まであった。 私が抱いていた郷愁を抱かせる場所とは遠くかけ離れた豊かで、どこにでもある観光地だった。 他には、伊達家ゆかりの古刹と小さな稲荷を詣でた。 そこからこっそり持ち帰った物(それは何かは内緒!)をあとから眺めてはバチが当たらないよう祈った。
修学旅行とは縁がない我々にとっては、同学年のみんなだけで寝泊まりする数少ない機会だ。 ま、これから部屋長になる心構えを勉強するわけだ。 何を勉強したか、今何も覚えていないとこをみると部屋長は誰でも知らない内になれちゃうんだ。 >だから部屋っ子が苦労するんだ! 覚えているのは瓜生にTorysの瓶を持ってかれたことだけだ。まだ2/3は残ってたぞい! でも、その瓜生が亡くなったそうだ。この間の同窓会で悲しい報せが告げられた。 細野の訃報にも驚いたが、何もそう死に急がなくても・・・・・ 卒業アルバム製作に、カメラを持って活躍していたCool-Guy瓜生の冥福を祈る。
五寮の寮長は有元、副寮長は和田という取り合わせだ。 有元はサッカー部でキーパーとして県大会でも活躍していたらしい。 和田は空手部だったが、見た目は優男だ。少し、軽いところがあった。 先生方が寮長達を決定したと思うのだが、適任者が選ばれたと思う。 いや、もしかするとなってからの時間が彼らを適任者に育てたのかも知れない。 寮長達は我々とは別に寮役員としてのガイダンスを受けていたように思う。
この佐藤君、確か三重県の出身だった。記憶に残っているのは、彼は『君が代』を知らなかった事だ。 私は正直驚いた。君が代は小、中と当たり前のように歌ってきたから、君が代を知らない奴が居るのが 不思議であった。 彼は習ったことがないと言っていたが、他の歌も"超"が付くほど音痴だったから、 歌うこと自体が嫌いだったのかもしれない。 数ある寮歌を覚えるのにもかなり苦労していた。 そして私はというと、夜更かしが過ぎて、朝、部屋っ子に起こされることがしばしばだった。 受験と真剣に取り組まなければいけない時期にたいして勉強もしていなかったのだが、夜遅くまでごそごそと活動していた。
特に歌番組などは興味の対象外で、ラジオから聞こえてくる曲で流行の最後尾を垣間見ている程度だった。 当然JAZZ等、耳にする機会もなかった。 そんな私が、小林から『Aspect In JAZZ』を教わった。今はもう無くなってしまったが、JAZZ奏者を一人ずつ紹介していく構成だったように記憶している。 丁度、背伸びした高校生がはまり易い素材だ。FM東京の『Jet Stream』と『Aspect In JAZZ』は欠かさず聞いていたように思う。 その頃には別館前にある自動販売機で、深夜『Short Hope』を買って来るようになっていた。 深夜、JAZZを聞きながら、"ショッポ"をふかした。喫煙は当然、見つかれば即停学の憂き目を見る。 寮担任の先生は夕礼の時に来られるだけで、見回り等は無かった。しかし、ヒヤヒヤものだったので、 カモフラージュのために季節はずれの蚊取り線香に火をつけた。 単なる気休めである。
そう何回も行ってはいないが、小林と出かけた覚えがある。 『マッコイ・タイナー』『バド・パウエル』『ソニー・ロリンズ』『ジョン・コルトレーン』等という名前も覚えた。 夜の時間の流れにJAZZのメロディはどこかCoolな印象だった。 『マッコイ・タイナー』のコンサートが芝の郵便貯金ホールであった時、初めてコンサートにまで出かけた。 大学時代、JAZZ好きの喫茶店のマスターと仲良くなれたのもこの経験があったからだ。 我々が暮らす2号館はゴルフ場のすぐ隣にあった。
その穴の中にはいろいろな物が投げ込まれていた。 男子寮は現在、高校の女子寮としてリニューアルされている。 聞いた話によると、その改装中、壁や床下からいろいろな物が出てきたらしい。 食堂からお櫃ごと、ご飯を持ち帰り、そのまま床下に投げ込んでいた輩もいたということだ。 あまり詳しく書くと、その当時心を痛められた先生方のお気持ちを、再び逆撫でしてしまいそうなので適当に切り上げておこう。 ただ、煙草の吸い殻などはかなりあったんじゃないだろうか。 実際、私などは一日2、3本も喫えば充分であったが、かなりなヘビースモーカーもいた。 元六の"I"はテーブルの下に常時吸い殻が満載の大きな空き缶を置いていた。 あれだけ、堂々と煙草臭い部屋も少なかった。 しかし、不思議のことに"I"は卒業まで一度も処分を受けずに済んだ。 我々が授業を受けている最中、河合先生が寮を見回っているという噂を聞いたことがあるのだがそれも怪しい。 これだけ書くとどれだけ風紀が乱れているのかと思われてしまいそうだが、比較するとかなり真面目な方ではないだろうか。 高校時代を過去の体験としてしまった人たちは過ぎ去った時間を振り返ってみるが良い! |
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